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【寿司通への道1】 知ると寿司がもっとおいしくなる 寿司の歴史

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日本食代表するものは?と聞かれて寿司を真っ先に思い浮かべる方、多いですよね。しかし知名度に比べてその歴史について知っている方は意外に少ないのではないでしょうか。
今回は知っていると寿司がもっとおいしくなる。そんな寿司の歴史をご紹介します。

寿司の語源

そもそもなぜ「すし」というのか、その名前の由来をご存じでしょうか?すしには「鮨」「鮓」「寿司」といった表記があり、「すし」という音は「酢飯(すめし)」からきており、“め”がいつしかなくなり、「すし」になったと言われています。

古く中国では塩漬けにした魚を「鮨」、発酵させた魚を「鮓」と書き、そこからすしをあらわす漢字になりました。そして、江戸時代に縁起がいいもの、祝いの席で食べるものという意味を込め、「寿〔ことぶき〕を司〔つかさど〕る」と書く和製漢字の「寿司」が誕生するようになったのです。なるほど寿司の漢字が複数あるのはこのような歴史背景があったのですね。

寿司の歴史―はじまりは2000年以上前―

寿司の起源「なれずし」

広義のすしは2000年以上の歴史を持ちます。発祥地は日本ではなく東南アジアにあったとされ、タイ、ミャンマー、ラオスなど東南アジアの一部の地域で、長期保存のため魚を米と塩で発酵させて作られた「なれずし」と呼ばれるすしが寿司の起源と言われています。

とは言っても、東南アジアでつくられていたすしは、現在日本を中心に広く食されている寿司とは味も姿もかなり異なります。「なれずし」は魚を保存する方法のひとつで、生魚を保存するために塩と米と一緒に漬け込んだものです。「なれ」とは発酵を意味し、微生物の働きを利用して食物を長期保存することです。この「なれずし」は、一緒に漬けて発酵した米は食べずに魚だけを食べていました。昔のすしは魚単体の発酵食品だったのですね。

東南アジアの「なれずし」は中国に伝播され、中国から朝鮮半島、それから日本へ伝えられました。寿司の起源である「なれずし」は稲作とともに日本へ伝わったとされています。

古代日本のすし

日本におけるすしの記録は奈良時代から始まります。奈良・平安時代は税として米や食物、地域の特産品を都に納めていましたが、魚介類を長期間保存できるなれずしも、都への貢物として献上されていました。滋賀県の名産「鮒ずし」(下画像)には、今でもその原型が残っています。 

当時の米は貴重品で、なれずしのように米をたくさん使い、しかも使用した米を食べずに捨てるのは非常な贅沢でした。古代のすしは貴族など高貴な人間が食べる贅沢品だったのですね。

室町時代のすし「なまなれ」 

しかし、農業技術が進み米の生産量が増えていくと、一般人の間にもすしが広まっていくようになります。すしが広まるにつれ、米を捨てずにいっしょに食べる、「なまなれずし」が誕生します。

鎌倉~室町時代に誕生したといわれているこの「なまなれずし」は、米が溶けるまで発酵させていた「なれずし」とことなり、米が酸味を持つ程度の発酵で済むため、その分賞味期限も縮まり、長期保存のためではなくなりました。ここですしは「保存食」から「料理」に変化したのです。

江戸時代のすし「早ずし」

そしてさらに発酵期間を短くしようと色々な方法が工夫され、やがて魚やご飯を酢に漬けたり混ぜたりした酸味のついたすしが食べられるようになりました。なれずしと比較して早く食べられることから、酢を用いたすしは「早ずし」と呼ばれるようになりました。

早ずしはの作り方は酢を混ぜたご飯に、酢づけや塩漬けにした魚を重ね強く押して作ります。数時間から一晩おき、味が馴染めば食べ頃です。

しかし、早ずしが誕生した頃の酢は日本酒を発酵させる方法で作られており、原料に米を使い時間もかかる高価な代物でした。それが1800年代になると、日本酒を作る時に残る酒かすを原料とした粕酢が発明されます。粕酢はすしによく合い、多くのすし屋が粕酢を使うようになり、江戸時代の早ずしを広めることになったといわれています。

江戸のファーストフード「にぎり早づけ」

早ずしの登場によって全国にすしが広まる中、江戸ですしの歴史を塗り替える革命的なすし「にぎりずし」が生まれます。

にぎりずしは1820年頃に華屋与兵衛が考えたと言われています。にぎりずしが誕生する前まで、すしはすし飯の上に魚をのせて箱に詰め、重石で押して作る箱ずしが主流でしたが、華屋与兵衛は箱につめて押す手順を省き、握ってすぐ食べられるようにしたのです。箱ずしより早く作れて、さらに新鮮な魚を食べられる「にぎり早づけ」はたちまち評判になり、いくつものにぎりずしの屋台ができ、江戸を代表するファーストフードになっていきました。

与兵衛が生み出した「にぎり早づけ」は次第に「江戸前ずし」と呼ばれるようになります。「江戸前」とは江戸の前に広がる海、今の東京湾を意味し、江戸の海で獲れた魚を握ったすしの呼び名です。

とはいえ、現代のように冷蔵庫もない時代ですから、いくら江戸前の新鮮な材料でも生のままではすぐに傷んでしまいます。そこで、醬油に漬け込むヅケや、塩や酢につけたり焙ったり煮たりして魚介類を日保ちさせる工夫をしました。すしの大きさも現代のすしより2,3倍大きかったと言われています。

全国に広がる江戸前ずし

明治以降には江戸で流行っていたにぎりずしが全国に広がっていきます。きっかけはいくつかありますが、明治政府が東京の文化を全国に広める政策をとったことや、関東大震災や戦災ですし職人が地方に移り住んで店を開いたこともにぎりずしを普及させる契機になったといわれています。

さらに戦後、1947年に連合国軍最高司令官総司令部であるGHQにより、配給された外食券以外の飲食店が営業禁止になります。東京の寿司職人の有志たちは何とか営業できるようにGHQと交渉します。その結果、委託加工制度が認められました。

委託加工制度とは、お客が1合の米を持参すると、寿司屋が加工賃をとって10貫の寿司を作るというものでした。委託加工制度によって江戸前寿司がある程度標準化され、全国に広まっていく要因にもなったといわれています。

ロマン広がる寿司の歴史

今やユネスコ世界無形文化遺産として登録されるまでになり、今は世界中の人々に親しまれているSUSHIは、東南アジア起源のなれずしから始まり、さまざまな経緯を経て日本の固有文化にまで進化したのです。

次に寿司を食べる時には、ぜひ寿司にまつわる歴史に思いを巡らせ、ロマンとともに召し上がってくださいね。