寿司偉人伝②江戸前寿司の創始者・華屋与兵衛
日本の食文化の一端を担う寿司は、非常に多くの種類があります。
そのなかでも江戸前の寿司は、現在はSUSHIとして世界でももてはやされる存在になりました。
この江戸前の寿司の考案者として知られているのが、華屋与兵衛です。
江戸の町人文化が華やかなりし時代に登場し、江戸前寿司を世に送り出した華屋与兵衛とはどんな人だったのでしょうか。
今回は伝説の偉人の足跡を追っていきましょう。
華屋与兵衛という人物
華屋与兵衛の本名は小泉與兵衛、1799年に霊岸島(現在の東京都中央区新川)辺りで生まれたとされており、花屋與兵衛と呼ばれることもあります。
当時、寿司は関西方面で流行っていた押し寿司がメインでしたが、そのような中で現代の握り寿司に近い形の寿司を考案して一世を風靡しました。
当時の寿司業界では、ライバルの堺屋松五郎らと名を連ねる存在であり、彼らと共に江戸の寿司界を牽引したまさに寿司業界の伝説的な人物です。
生涯の幕を閉じたのは安政5年(1858年)。まさしく町人文化が華やかに繁栄した時代において独自の地位を築き、料理人として大いに活躍したのです。
握り寿司の誕生と華屋与兵衛
文献から辿る華屋与兵衛
華屋与兵衛が握り寿司の祖とされている理由は、俳人小泉迂外の記述に拠ります。
小泉迂外は、明治時代に4代目華屋与兵衛を継いだ店主の弟でした。
小泉迂外によれば、江戸で握り寿司が誕生したのは文政の初年であり、初代の与兵衛が考案したものだと明記しています。
一方で、与兵衛の以前にも同様の方法で寿司を作ろうとした人は数人いたものの、すべて失敗に終わって江戸っ子の人気を得ることはできなかったとも記しています。
小泉迂外は端的に言えば身内にあたるので、全てが真実かどうかはわかりませんが、当時すでに華屋与兵衛以外にも現代風の握り寿司を作っていた寿司屋はあったようです。
華屋与兵衛はその中でも突出して、商売としての成果をあげたのでしょう。
また文久子という人の『またの青葉』にある「与兵衛伝抄」によれば、華屋与兵衛は上方寿司の悠長な調理法を嫌ったこと、押し寿司では魚の美味が生かせないために「早漬け」という方法を編み出し、握り寿司としたとされています。
与兵衛はまた握り寿司以外にも、おぼろ鮨を考案したとも伝えられています。
当時は芝海老を好む人が少なく安価であったため、与兵衛はこの点を活用して芝海老を煮ておぼろを作り、人気を博したのです。
もてはやされた与兵衛の握り寿司
華屋与兵衛による握り寿司が当時どのくらいもてはやされたのかが、さまざまな文献にも残っています。
たとえば銅脈山人による『江戸名物狂詩選』には、両国東の与兵衛寿司が流行していたことが記されています。
また『武総両岸図抄』に残された狂歌にも、折詰にした「与兵衛鮓」や長蛇の列に並ばないと買えない「与兵衛酢」が歌われています。
押し寿司中心の時代に持ち込んだ握り寿司は大ヒット。
岡持ちを担いで売り歩くことから始め、徐々に大きくなり、ついに立派なお店を構えてまさに当時の寿司業界を代表する存在になりました。
華屋与兵衛の時代の寿司業界
華屋与兵衛が考案したとされる握り寿司は、せっかちな江戸っ子の気質にぴったりと合い、またたくまに江戸の町に広がっていきました。
とはいえ、当時の寿司業界は実際には与兵衛だけではありませんでした。
ここでは当時の寿司業界を牽引した「江戸三鮨」と呼ばれる江戸の三大寿司のうち、与兵衛寿司以外の2つを紹介しましょう。
松ヶ酢
文化年間の初めごろ、堺屋松五郎が深川安宅町に開店したのが「松ヶ酢」という寿司屋で、握り寿司の考案者は華屋与兵衛ではなく堺屋松五郎だという説もあるほど、まさに華屋与兵衛とっては好敵手とも言える存在です。
松五郎が店主であったため、「松ヶ酢」という名称が有名ですが、屋号は砂子鮓(いさごずし)であり、安宅にあったことから「安宅の酢」と呼ばることもありました。
寿司にわさびを使ったのは「松ヶ酢」が始まりという説もあります。
「松ヶ酢」はとにかく豪華絢爛なことで有名で、江戸の風俗を伝える『嬉遊笑覧』には、松ヶ酢の寿司によってそれまでの寿司が一変したもと記されています。
あまりにも豪華すぎて、天保の改革で贅沢を禁じていた老中・水野忠邦によって華屋与兵衛と共に投獄されてしまいます。
なお、「松ヶ酢」の威勢は当時の有名な浮世絵師・歌川国芳によって浮世絵デビューしてるところからも伝わってきます。 蒸しエビは今も昔も変わらず子どもに人気だったようですね。
歌川国芳「縞揃女弁慶 松の鮨」
毛抜鮓
毛抜鮓は「江戸三鮨」の中でももっとも老舗店です。
越後・新発田出身の松崎喜右衛門が1702年に竃河岸(現在の日本橋人形町付近)に「毛抜酢」と称する鮨屋を開業したのが始まりとされています。
毛抜酢は握り寿司というよりは、笹の葉で巻いた押し寿司の一種で笹巻寿司と呼ばれ、寿司ネタは生のものではなく、何度か段階を重ねて塩や酢でしめたものであったため、非常に手間がかかるものでした。
そのため、高級品であり、大名や旗本などの高貴な人物が主な顧客層だっと言われています。
毛抜酢という変わった名前は、魚の骨を毛抜きで除去したからとか、あまりの美味しさに「色気抜き」で食べてしまうためなどの説があります。
毛抜鮓は現在も「笹巻けぬきすし総本店」として神田付近で営業しています。
チャンスがあったらぜひ行ってみてくださいね。
与兵衛寿司その後
昭和の初めまで健在した与兵衛寿司
初代華屋与兵衛が60歳で亡くなったのは、1858年のことでした。
その後、2代目小泉金三郎、3代目小泉菊太郎、4代目小泉喜太郎があとを継ぎ、華屋与兵衛の寿司店は昭和の初めまで継続したことがわかっています。
墨田区の両国に残る与兵衛寿司発祥の石碑によれば、華屋与兵衛の寿司店の閉店は昭和5年、また別の説では昭和7年とされています。
脈づく華屋与兵衛の技とスピリット
初代華屋与兵衛の血脈は絶えてしまったものの、同店に弟子入りした職人たちによって、握りずしの創始者の技やスピリットは連綿と伝えられているといわれています。
そのひとつが東京・人形町にある「㐂寿司」。
創業から1世紀近い歴史を誇る㐂寿司は、初代油井㐂太郎が与兵衛鮨の支店で9歳から修業したところから始まりました。
二代目油井貫一から当代の油井隆一へ継承され、㐂寿司は今も与兵衛鮨の伝統を伝えています。
また、明治12年創業の吉野鮨本店も、華屋与兵衛の流れをくむ老舗として有名です。
現在は5代目が継いでいる吉野鮨は江戸握りの主流であることに加え、日本で最初にトロの握りを作った寿司屋としても知られています。
時代を超えて輝く名料理人・華屋与兵衛
今回は華屋与兵衛という人物と彼の生きていた時代の寿司業界に焦点を当てててみました。
時代が移り変わる中、試行錯誤を重ねて独自のスタイルを編み出し、成功を掴みました。
実のところ、華屋与兵衛は寿司屋だけではなく、さまざまな商売に挑戦しており、その中でついに大きく当たったのがこの握り寿司スタイルだったのです。
こうしてみると起業家としても偉大な点が見えてきますね。
安政5年(1858年)に彼がこの世を去った後も華屋与兵衛が残した足跡は、現在の日本の食文化に大きな影響を与え続けています。
華屋与兵衛の名は語り継がれるべき一流の料理人の象徴として、私たちの記憶に残ることでしょう。
参考資料
・講談社日本人名大辞典「はなやよへえ」
・小学館日本国語大辞典「よへいずし」
・日本近代文学大事典「小泉迂外」
永瀬 牙之輔 著『すし通』2016年,土曜文庫刊